クリスマス・イヴ礼拝説教 「飼い葉桶におられる方―私のためにおいでになった救い主―」ルカによる福音書2章6、7節、フィリピの信徒への手紙2章6~8節 2025年12月24日

12月24日(水)午後 7:00- 8:15 クリスマス・イヴ礼拝
クリスマスおめでとうございます。主のご降誕をお祝いして、共に礼拝を捧げました。
動画は、「限定公開」とさせていただきます。教会員とその関係者のみご視聴いただけます。
ご覧になりたい方は、赤塚教会までご連絡をお願いいたします。
(はじめに)
クリスマスおめでとうございます。クリスマス・イヴに、皆さんと一緒にクリスマスをお祝いすることができますことをとても嬉しく思います。
クリスマスの出来事は、今から二千年ほど前のことでした。今皆さんは、クリスマス・ページェント、降誕劇をご覧になりました。クリスマスの出来事を目で見ていただきました。これからしばらくの時間は、クリスマスの出来事を聖書の言葉から聴いていただきたいと思います。
(聖書から)
まず、一つの聖書の言葉をお読みします(ルカ2章6、7節)。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ここには、イエスさまのお父さんのヨセフとお母さんのマリアがベツレヘムにいた時、マリアがイエスさまをお産みになったことが書かれています。ヨセフとマリアは、住民登録のために、住んでいたガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムへ行きました。その時には、妻のマリアはお腹にイエスさまを宿していましたから、その旅というのは、とても大変なものでした。夫のヨセフは、妻のマリアのために早く宿屋に泊まりたかったのですが、どこの宿屋もいっぱいで泊まるところがありませんでした。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。ヨセフとマリア、そして、イエスさまの泊まる場所はなかった、というのです。アメリカのある教会での話です。あるクリスマスの日のこと、教会で今日のように、クリスマス・ページェント、降誕劇を行っていた時のことです。ヨセフさんが泊まる場所がないだろうかと、宿屋を一軒一軒訪ねて行きました。「トントン、こちらのお宿はお部屋が空いていませんか?」「いいえ、あいにく部屋は満員です」。そんなことが繰り返し続いて、ヨセフさんは困っていたという場面です。その降誕劇で宿屋の主人の役をしていたのが、一人の男の子でした。その子は、「あいにく部屋は満員です」とちゃんとセリフを言うことができたのですが、そのセリフを言った後、がっかりした様子で立ち去っていくヨセフさん役の人を追いかけて行って、大きな声で泣きながらこう言った、というのです。「ヨセフさん、行かないで!僕の家に泊まってください!」
こういうのをアドリブというのでしょうか?予定していなかった展開になってしまいました。この降誕劇はどうなったでしょうか?めちゃくちゃになってしまったのでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。「ヨセフさん、行かないで!僕の家に泊まってください!」これを観ていた会衆のみんなは感激して、拍手が鳴りやまなかったそうです。涙と感動に包まれた降誕劇になったそうです。
さて、先ほどお読みした聖書の言葉の中に、イエスさまが生まれた場所のことが書いてありました。それはどこでしょうか? 「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とありました。飼い葉桶です。飼い葉桶というのは、動物の餌を入れる箱のことです。その中に、生まれたばかりのイエスさまがおられた、というのです。ヨセフとマリアは、泊まる宿屋がありませんでした。そこで、空いているところはないだろうか、ということで教えてもらったのが、家畜小屋だったと言われています。牛や馬が飼育されていた小屋です。その家畜小屋の飼い葉桶の中にイエスさまは生まれた、というのです。
飼い葉桶というところは、きれいではありません。動物の糞尿だらけで、汚いところです。イエスさまはなぜ、飼い葉桶の中に生まれたのでしょうか?ずっと語り継がれてきたのは、イエスさまが飼い葉桶の中に生まれた、というのは、私たちのためだということです。飼い葉桶の中というのは、私たちの心の中のことを言っているということです。ある哲学者であり、牧師である方が言われたことですが、神さまという方に私たちはどのようにしたらお会いできるのか、というと、私たちの心の中でお会いできるというのです。それも私たちの心の中の汚い部分だというのです。
ところで私たちの心の中というのはどういうものなのでしょうか?心の中というのは、見ることができませんから、そう簡単には分からないと思います。イエスさまは、ある聖書の個所で、神さまのことをこのように言っておられます。「隠れたところにおられるあなたの父」、「隠れたことを見ておられるあなたの父」(マタイ6章4、6、18節)。この「隠れたところ」というのは、私たちがお互いに見ることができない、知ることができないところのことです。それは心の中のことです。神さまはあなたの心の中を見ておられる、知っておられる。私たちは、他人の前では、自分の良いところだけを見せようとします。でも悪いところは隠してしまいます。他人から良く思われたいし、嫌われたくありません。しかし、神さまは、私たちの悪いところ、隠したいところ、すべてを見ておられる、知っておられるのです。
神さまは私たちのすべてをご存じです。それでは、神さまはそういう私たちを裁いたり、厳しく追及したりするのでしょうか?いいえ、そうではありません。そういう私たちのために、神さまはご自分の大切なみ子であるイエス・キリストをお送りくださったのです。
私たちの心の中、それは、誰にも知られたくないことだらけです。しかし、その心の中にイエスさまがおいでになりました。そして、イエスさまは、私たちの心の中の汚いところを洗ってくださるのです。どういうふうにして洗ってくださるかというと、ここに十字架があります。十字架という方法で私たちの汚いところ、これを聖書では、罪と言います。私たちを罪から救ってくださったのです。
聖書のフィリピの信徒への手紙2章6~8節には、イエスさまが私たちのところにおいでになったことと十字架について書かれています。「クリスマスと十字架」が一緒に語られている聖書の言葉です。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
イエス・キリスト、この方は神さまですが、私たちのところに人としておいでになったのです。そして、私たちの罪をすべてお受けになるために十字架におかかりになりました。
(むすび)
毎年、教会では、クリスマスをお祝いします。最初にお話ししたように、クリスマスとは、私たちの救い主イエス・キリストがおいでになったことをお祝いする日です。私たちは、このクリスマスを迎えるにあたって、それぞれにこのことについて考えてみたいと思います。イエス・キリストは誰のためにおいでになったのでしょうか?私の愛するあの人のため、私の親しいこの人のため・・・。いいえ、まず、私たちが知らなければならないのは、イエス・キリストは、この私のためにおいでになったということです。
12月は「師走」と言います。牧師もこの言葉のように、この12月は忙しくなります。忙しいとは、心を亡くす、と書くと言われますが、忙しさのあまり、心を亡くすようなこと、自分を見失うようなことにならないようにと気をつける毎日です。私は、クリスマスのお話の準備をしながら、今皆さんに言ったことを自問自答してみました。イエス・キリストは誰のためにおいでになったのか?私は、教会においでになるあの人に、この人にクリスマスのメッセージを届けたい!そういう思いでお話の準備をしていました。あなたのためにイエスさまがおいでになりました!そのように語るのは間違ってはいないと思います。けれども、大事なことを忘れていました。まず、私自身が知らなければならないこと、それはこの私のためにイエスさまがおいでになった、ということです。イエスさま、私のためにありがとうございます!感謝します!この喜びをお伝えしよう、お知らせしよう。自分自身がこのことに気づかされて、何か目が覚めたような思いで、今日、この場でお話しさせていただきました。クリスマス、おめでとうございます。お祈りしましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
神さまはこの私のために、救い主イエス・キリストをお送りくださいました。イエスさまは飼い葉桶の中に生まれました。それは、私たちの心の中においでくださるためでした。そして、この私を罪から救うために、十字架にかかってくださいました。
神さまがお送りくださった最高のプレゼント、それがイエスさまです。イエスさまは、私たちの罪深さ、弱さもすべてご存じです。そういう私たちを変わることなく愛し、一緒にこの人生を歩んでくださいます。どうか、新たにイエスさまをお迎えする方がありますように。イエスさまをお送りくださって感謝します。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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